1~2日で出荷、新刊の場合、発売日以降のお届けになります
1840年6月、アヘン戦争が始まった2年後、大国・清は降伏。幕府はその英国の暴虐に衝撃を受けた。1853年6月、ペリー艦隊が来航し開国を求めたが、老中阿部正弘はオランダ風説書によりペリー来航を知っていたため、慌てることなく1854年3月に日米和親条約を調印。1856年10月、広東駐在英国領事パークスは、アヘン戦争に敗れて広東・上海等開港を約束した清が条約不履行の状態にあるのを不満として、英国海軍に広東を砲撃させ、アロー戦争が勃発する。そんな中、孝明天皇が勅許を下さずにいたところ、井伊大老は安政五(1858)年六月十九日に、勅許を得られないまま日米通商条約調印。その後、水戸浪士は万延元(1860)年三月に井伊大老を斬り、全国的に攘夷論が高まり、京都では天誅の嵐が吹き荒れることとなった。長州藩攘夷派は、1863年5月、下関海峡を航行中の無辜のアメリカ、フランス、オランダ船を砲撃し、これに対する報復としてイギリスが主導した英、仏、蘭、米による四国連合艦隊が1864年8月に長州藩砲台を砲撃し占領を確かなものとし、下関戦争は長州藩の完敗で終わることとなった。その後、徳川慶喜は1867年10月14日、大政奉還を行う。もし慶喜が構想した議会制度が実現し、政友会と民政党が覇を競い合った大正デモクラシーのように、二大政党による政権交代が行われ、平和を維持することができていたなら、後の大政翼賛会の下での昭和ファシズムの発生、そして米英に対する戦争の遂行といった事態は生じなかったであろう。しかしながら、実際には、慶喜の大政奉還同日の岩倉具視が主導した討幕の密勅という偽勅が、薩摩と長州に下され、大義なき戊辰戦争、薩長による大砲と戦争の時代が進められてゆく。戊辰戦争から始まった日本の近代77年間は、戦争に次ぐ戦争により310万人の犠牲者を出す未曾有の大敗となって終焉を迎えることとなったのだ。本書は、その愚なる戦いの?末を、在野の歴史家が詳らかにし、その真相を剔抉する書となる。
よく利用するジャンルを設定できます。
「+」ボタンからジャンル(検索条件)を絞って検索してください。
表示の並び替えができます。