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私の人生は、一生かけてお父ちゃまを愛する人生だった。
29歳の若さで広島で被爆死したジャーナリストの父と、25歳から97歳まで寡婦を通した母。
残されたのは、戦時下にいきいきと綴られたふたりの恋文だった。
戦後生まれの著者が「予め失われた父」を探す心の旅の記録。
* * *
母が朱塗りの文箱に保管していたのは、ふたりの婚約時代から約二年間分の往復書簡。
生まれたときから顔も知らない父の肉筆がそこに残っていた。
綴られていたのは、中国新聞社主の長男としてジャーナリズムの道を歩んでいた父の軍隊での生活や、戦後はどこか感情が乏しかった母の溌剌とした戦前の様子。
書簡を通して父を知る旅を始めたはずが、図らずも母を発見することになる。
最晩年、「お母ちゃまの人生はどんな人生だったの?」と尋ねると、母ははっきりと応えた。
「私の人生は・・・、私の人生は、一生かけてお父ちゃまを愛する人生だった」
<「はじめに」より抜粋>
今年も8月6日がやってきます。原爆記念日(8月6日)は、戦後七八年たった今日でも、沖縄慰霊の日(6月23日)、終戦記念日(8月15日)とともに忘れてはならない日です。
その日、爆心地から600mの当時陸軍第五聯隊師団司令部で、朝礼に参列している多くの人々と共に、私の父は被爆死しました。正確に言えば、行方不明です。29歳でした。
昭和20(1945)年になり、日本各地の都市が空襲に見舞われるようになりましたが、軍都広島はまだ大きな空襲を受けていませんでした。七月になると、戦局が愈々悪化してきたため、父は家族(父母、妻、長女、長男)を広島市平野町の自宅から広島市郊外の安芸郡府中町(爆心地から約5㎞)の小さい家へ、急遽、疎開させました。
半月も経たないうちに、「その日」はやって来ました。平野町の実家は、焼失したようですが、疎開したお陰で家族5人は無事でした。それでも、移り住んだ家の二階の窓ガラスは爆風で粉々に割れ、天井は吹き上がったとのことです。
8月6日に帰宅する予定だった父は戻らず、新型爆弾が落とされたという噂が流れました。翌7日から9日まで、身重の母は、父を探して、師団司令部のみならず、広島駅、白島、牛田へと、市内各地を歩き回りました。母と母の胎内にいた私は後に、入市被爆者に認定されました。3日間の捜索もむなしく、遺骨も、遺品も見つかりませんでした。
その時、母は25歳、以来97歳で亡くなるまで、72年間寡婦を通しました。
(中略)
父が遺したものは、本ばかりでしたが、母が朱塗りの文箱に保管していたふたりの婚約時代からおよそ2年間の往復書簡に、父の肉筆が残っていることに思い至りました。
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