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内田さんの絵は、数え切れないほどの線がキャンバスの平面空間の中を縦横に走るような描法が主体となっています。それは一見、放恣に、あるいは気の向くままに、あるいは偶然の効果に委ねるような気持ちで描かれているように見えるかもしれません。しかしその線を詳細に観察してみると、以下のような特徴を有していることが見て取れました。
1. 線はキャンバスの縁近くの1点から、もう一つの縁近くの1点へと途切れることなく描かれている。(つまり、途中で切れることがない、ということです。)
2. 先端が動いていく方向は必ずしも決まっていない。どの方向をとるかは、線を描くという行為の中で臨機応変に判断されていくようです。そのため全体の印象としては、たとえばパウル・クレーの線に対して誰かが言ったような、“夢見る線”の趣きを呈している。
3. 無数の線が交錯することで生じてくる余白の空間が、単に結果としての偶然の形を見せているのではなく、ある傾向性が認められる形(たとえば、四角なら四角っぽい傾向、不定形ではあるけれど角数が六つから七つほどで一定している多角形の傾向とか)で統一されている。
この3つの特徴から、次のようなことが言えると思います。
1.からは、「画面上に線を一つの生き物のように存在させる」というような意志を伴って線を描いているように私には感じられます。なので内田さんの線は、造形のひとつの要素ということ以上の意味を有していると考えざるをえません。
2.からは、「作者にとって線を引くことの意味は、瞬時瞬時の内的体験の行跡として捉えられている」のではないかと考えられます。
3.からは、余白の形の作り方が意図的である。つまり意図した形が生じてくるように、線の動き(線の描き方)がコントロールされている、ということが分かります。
特に3.については、相当な訓練が重ねられてきているようだということが推測されます。それは、一見線を自由にアトランダムに描いているように見せかけながら、実は作者の意志の下でしっかりとコントロールされているという状態を実現することは、なかなかできることではありません。それは、読者のみなさんが自分でやってみればわかるでしょう。自由に放恣に線を描くと、線で囲まれた余白の形も雑多で無秩序的でしかありませんが、逆に余白の形に一定の傾向性を求めようとすると、線が機械的に操作されて自由感が失われます。
線をどう描いていくかということの中に、内田さんの創作の一つの鍵が秘められているということです。
(序文(笹山央)より抜粋)
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