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◆卑俗性を対象化する
日のさして今おろかなる寝釈迦かな
(『加古*傲霜』)
全句集に従って『加古』と『傲霜』を併せて扱う。昭和五年から十三年までの句を収録。耕衣は三十代で、原石鼎の「鹿火屋」や小野蕪子の「鶏頭陣」に投句していた。
掲句は『加古*傲霜』の一句目。「日のさして」とは、ふだん未公開の涅槃図が、涅槃会で公開されたのだろう。明るい場所に出されると、有難味が薄れる。小さな弟子たちに囲まれて、ひときわデカい釈迦が横たわっている図が、いかにも「おろか」に見えたのである。上五の単純な写生から入って、「今」でギアを上げた。この時点ですでに、「ホトトギス」ふうの俳句とは感覚が違う。
◆シリーズ最新刊
耕衣の俳句が難解といわれたのは別の理由もある。いま独自な俳句論と書いたが、そもそもその理論が難しいのである。もっともそういう理論は、耕衣の俳句を読むためには必要ない。たとえば耕衣は禅に傾倒し、その思想についてしばしば語ってきたが、耕衣の愛読者は、俳句から禅の思想を享受しているわけではない。耕衣の句が読む者を魅了するのは、五七五の言葉がときにその意図を超えて飛躍するからだ。そこには、定型の力学を感知する先天的な言語感覚があるのだが、それは理屈で論じることができない。
ただしここでは、永田耕衣という作家を理解するために、そうした独自な俳句論(あるいは俳句観)とも付き合ってみたい。となれば私たちも、「俳句的」なパラダイムを離れないといけない。
(解説より)
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