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思想家・内田樹が駆け出しのフランス文学者時代に執筆した、フランス文学・哲学関連の論文を集成。偏愛するレヴィナス、ブランショ、カミュ(『異邦人』『ペスト』『カリギュラ』『シシュポスの神話』)を題材に、緊張感溢れる文章で綴った七篇の論考。「なぜ人を殺してはいけないのか」「いかにして成熟するか」――。著者の原点である倫理的なテーマに真摯に向き合う。
【「まえがき」より】
本書は僕が若い頃に書いたフランス文学、哲学についての論文を集めたものです。副題に「初期論文集」とありますように、多くはフランス文学者として駆け出しの80年代から90年代にかけて書かれたものです。(……)ふだん僕が書いているものと比べると、微妙に「よそよそしい」です。
でも、こういうふうにある種の「定型のしばり」がある方が文章には独特の緊張感が出てきます。本当は「変な話」を書きたいのだけれど、それを学術的定型の中に収めて、合法的に表現しなければならない。そういう葛藤が独特の「味わい」を出しているように思います。時間が経って読み返すと、やはり「定型的な書き方に表面的には従属しながら、ひそかにゲリラ戦を展開している」という不心得なタイプの書き物の方が面白い。「不心得」であるときに「水を得た魚のようになる」というのがどうも僕の変わることのない本性のようです。
それからタイトルについて一言。
「前〓哲学的」(pr〓-philosophique)というのはエマニュエル・レヴィナスの言葉です。本書に収録された「声と光」という論文の中に出てきます。「哲学的な思惟はすべて前〓哲学的な経験をその根拠とする」というレヴィナスのフレーズをその論文の中で僕は引用しています。
ここに収録された論文はいずれも「哲学的思惟」について論じたものではありませんし、何らかの「哲学的思惟」を文字化したものではありません。そうではなくて、いずれも「哲学的思惟」が形成される手前の、僕自身のリアルな「前〓哲学的経験」について語っています。「前〓哲学的経験」とは、僕の個人的なとまどいや、ためらいや、あるいは感動や開放感のような身体的な経験のことです。それ自体はまだ明確なアイディアとしてはかたちをなしてはいません。でも、「哲学的思惟」の名に値するものは、この名状しがたい、未定型な泡のような思念の運動からしか出てこない。僕はそう考えています。では、どうぞお読みください。面白く読んで頂けるといいんですけど。
【目次】
まえがき
20世紀の倫理――ニーチェ、オルテガ、カミュ
アルジェリアの影――アルベール・カミュと歴史
「意味しないもの」としての〈母〉――アルベール・カミュと性差
鏡像破壊――『カリギュラ』のラカン的読解
アルベール・カミュと演劇
声と光――レヴィナス『フッサール現象学における直観の理論』の読解
面従腹背のテロリズム――『文学はいかにして可能か』のもう一つの読解可能性
解題
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