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スタイリッシュな左翼モボ、大阪ゆかりの稀代の彫刻家。浅野孟府の生涯と作品。
大正時代に新興美術運動の担い手としてさっそうと登場し、二科彫刻部の草創期に活躍した浅野孟府。やがて社会主義の洗礼を受け、通天閣そばにプロレタリア美術研究所を開設し、信濃橋洋画研究所の画学生を勧誘する。
本業はあくまで彫刻家ながら、新興の糸あやつり人形や演劇の舞台装置の制作に携わり、戦時中は円谷英二が特技監督を務めた東宝映画『ハワイ・マレー沖海戦』の特撮美術も担当し、真珠湾の模型などを制作した。
浅野孟府が大阪野崎に構えたアトリエには小説家の大岡昇平や洋画家の鳥海青児らが訪れ、文化サロンを形成していた。若き日の師・戸田海笛、盟友の洋画家・岡本唐貴(白土三平の父)、そして弟子にして助手・利光貞三(『ゴジラ』の造形師)など、彼をとりまく人々は多士済々である。
19世紀最後の年に生まれ、大正モボ~第二次世界大戦~戦後の民主主義高揚期という激動の時代を生きた彫刻家・浅野孟府の生涯と、その作品を掘り起こす。
【浅野孟府略歴】1900(明治33)年生まれ。本名猛夫。東京美術学校(現・東京芸術大学)彫塑科に入学し北村西望教室に学ぶ。1922(大正11)年院展に石膏像「頭」が入選。二科急進派「アクション」や「三科」同人になった後、プロレタリア美術運動へ加わる。彫刻のほか、舞台芸術、陶芸、人形制作、特撮美術など多方面で活躍。1972(昭和47)年大阪彫刻家会議初代会長就任、1973(昭和48)年大阪芸術賞受賞。1984(昭和59)年没、享年84才。
2000年(平成12年)浅野孟府生誕100年遺作展が大東市で開催、記念誌が刊行される。
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