メイド・イン・ツバメ

メイド・イン・ツバメ

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出版社
新評論
著者名
関満博
価格
9,350円(本体8,500円+税)
発行年月
2019年10月
判型
A5
ISBN
9784794811318

私が新潟県燕市を初めて訪れたのは、プラザ合意の翌年、1986年9月のことであった。急激な円高の影響は大きく、各地の輸出型地場産業は構造転換を余儀なくされていく。この円高問題に関してマスコミが常に真っ先に報道したのが、カトラリーなどステンレス製洋食器の対米輸出産地・燕だった。当時は「ツバメが鳴けば補助金がおりる」とまでいわれていた。
 燕市の産業化は江戸初期に始まる。信濃川の度重なる氾濫に悩まされ疲弊した人びとに、中越の出雲崎【いずもざき】代官が和釘の技術を伝えた。その後、銅器、煙管、ヤスリなどの技術が導入され、和釘を中心に金属製品産地が形成される。だが、明治中期には主力の和釘は洋釘に席巻されていく。
 第一次世界大戦期には、戦場となったヨーロッパで洋食器が生産できなくなり、代替地として日本の燕に白羽の矢が立った。企業家精神旺盛な燕の人びとはこれに果敢に取り組み、その後の基幹的な産業に育てていった。
 第二次大戦後は朝鮮戦争特需で沸き、ステンレスへの転換が一気に進んだ。1950年代中頃以降は対米輸出を急拡大させ、早くも57年にはわが国初の日米経済摩擦に直面。これに対し、輸出自主規制という枠組みを作り、それがその後の日米経済摩擦(繊維、半導体、自動車等)の際の対応スキームとなった。
 85年のプラザ合意を機とする円高の影響は、71年ニクソンショック以降の円高をしのぐ圧倒的なものだった。洋食器の対米輸出は消滅に至った。以後、燕は「鳴かないツバメ」として、洋食器の単一製品生産を脱し、ステンレス技術を基軸に中小企業各社が独自な方向を開拓していった。いわば「ツバメ返し」である。それから30年、燕は世界的な複合金属製品産地、多様な金属加工の複合加工基地としてみごとに甦った。
 燕のケースは、人びとの旺盛な企業家精神が新たな可能性を生み出した好例である。「地場産業の歴史は事業転換の歴史」といわれるが、燕の歩みはその典型であり、全国の地方都市に重要なヒントを与えてくれる。(せき・みつひろ)

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