常々思うことだが、精神分析の世界は、いつの時代にも二つの立場に分かれる傾向にある。患者の苦悩に向き合うのか、それとも患者の心の探究に向かうのか。前者においては患者はさまざまな挫折やトラウマを体験し、多かれ少なかれ苦しみを抱えて治療に訪れることを前提とする。治療者も同じ苦しみを抱えた人間として全人的なかかわりを行う。患者を苦しみから少しでも救い出すことを、治療的なかかわりの目標の一つと考えることもごく自然なことだろう。ところがそのような目標を持つことは、ともすれば後者の心の探究者としての分析家にとっては本来的な分析の作業とはみなされない傾向にある。精神分析において患者の苦悩が癒されても、それは「歓迎すべき副産物」としてしか扱われかねない可能性があるのだ。本書を執筆するチャールズ・ストロジャー氏、ドナ・オレンジ氏、ロジャー・フリー氏、ドリス・ブラザーズ氏、そして富樫氏が論じるテーマは、いずれも人間の苦悩に深くかかわっている。ニューヨークにおける9・11事件により提起されたトラウマとテロリズムの問題、パラノイアと原理主義の問題、そして著者たちにとってなじみ深い米国とわが国との間に生じた忌まわしく悲しい過去の問題。さらにはそれらの考察から浮かび上がってきた重要なテーマとしての倫理性の問題。彼らはまた、苦悩する人間としての自らの体験を惜しげもなく自己開示している。私は精神分析は心の探求をする営みであってよいと思う。そこでは転移、逆転移、伝統的な精神分析の枠組みが依然として重要な意味を持つ。ただ百年以上の歴史を持つ精神分析が人間の苦悩について論じ、それを軽減する方向性を模索することもまた重要な使命であるとも思う。そしてフロイトも最初はそれを「症状の軽減」という形で目指していたはずなのだ。しかしフロイトはその後に精神分析を一つの学問として純化していくプロセスをたどる。第一次大戦中も戦争の犠牲者にあまり接することなく、治療費を払う余裕のある限られた数の患者との分析作業を続けたフロイトは、すでに患者を苦しみから救うという方向性を失い始めていたのだろうか?本書の著者たちが扱っているもうひとつの現代的なテーマは、現代の精神分析の世界の多様化であろう。その中でも人と人との対等な関わり合い、その際の倫理的な配慮といった観点は間違いなくその重要さを増している。そして彼らは同時に過去の哲学的な資産を掘り起こし、精神分析理論をさらに豊かにするような作業をも含む。ニーチェ、ヴィトゲンシュタイン、ディルタイ、ビンスワンガー等の哲学的な業績を縦横に論じるフリー氏やオレンジ氏の章にそれは顕著に表れている。彼らは人と人とのかかわりを本格的に論じたのは決して精神分析が最初ではないということを気づかせてくれる。精神分析的な思考の原点は何もフロイトだけではないという発想。これも本書を紐解くことで得られる貴重な教えである。(「序文より」)
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