本書は、江戸時代の漢方医学者である香川修庵の残した全二十三巻の医学全書『一本堂行余医言(いっぽんどうこうよいげん)』のうちの一冊、「巻之五」を現代語に全訳し、注釈を付したものである。
香川修庵は、一六八三年に播磨国姫路に生まれ、伊藤仁斎のもとで古学を修めた。『傷寒論』を尊び儒教の教えを崇拝し、儒医一本論(身を修める聖道と医術は一本であるという考え)を唱えて、みずから「一本堂」を称した。
五世紀から六世紀にかけて中国から日本に医学が伝わり、その後、室町時代までは中国伝来の医学に沿って行われていた治療は、しだいに日本独自の発展を遂げ、進化・確立されていった。今日、医療の現場で西洋医学と併用する形で漢方医学や漢方薬を用いている医師は、じつに8割にのぼると言われている。
本書は、今日の精神病を広く含み込む「癇(かん)」、神経症、知的障害などさまざまな精神障害の臨床像や治療経過を多くの症例に基づいて緻密に記録したもので、精神医学の歴史からみても、当時の最も優れた医療記録の一つであると言える。また、世界で初めての「神経性無食欲症」の記載があるなど、文献的価値もきわめて高いものである。
経験と臨床を重んじる修庵の態度は、当時、古典籍や古学を重んじる他の門人からは大きな批判を受けた。しかし、彼の描く臨床描写は具体的でありじつに緻密で、患者のいきいきとした記述は、江戸時代の人びとの生活や精神障害者に対する感性までも彷彿とさせ、医療関係者や近世文化研究者のみならず、広く読者の関心を引くものとなっている。また、江戸時代に精神障害者がどのように扱われ、どのように治療されていたのか、本書はその一端を垣間見ることのできる非常に貴重な資料でもある。
原文が漢文で書かれているため、これまでごく一部の研究者にしか知られていなかった修庵の思想を、今回、精神科医、国文学者、中国語の専門家の協力のもと、初めて現代語訳で読めるようになった。漢方、東洋医学に関心をもつ医療関係者のみならず、江戸の文化や庶民の暮らしぶりに関心をもつ一般の読者にも、ぜひお薦めしたい一冊である。
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