●本冊は前冊に引きつづき、慶長十四年・十五年、および天正五年・八年の別記を収めた。慶長十四年分は天理大学附属天理図書館所蔵自筆原本一冊、同十五年分は豊国神社所蔵自筆原本一冊、天正五年・八年別記は國學院大學附属図書館所蔵自筆原本である。これにて兼見卿記の現在知られている本文は全て翻刻したこととなる。翻刻の体裁も原本の雰囲気が窺えるよう工夫し、口絵写真も示した。
●また本冊には、豊国神社所蔵自筆原本の紙背文書も併せて収めた(天理図書館本の紙背文書は『ビブリア』連載中)。これに、自筆原本の所在は不明ながら、影写本作成時に書き起こされたとみられる元亀年間の日記(本文は第一冊所収)の紙背文書についても、史料編纂所に残されていた原稿をもとに収めた。以上により、天理図書館本以外の自筆本の紙背文書はほぼ網羅されることになる。加えて、國學院大學宮地直一コレクションに含まれる兼見自筆の神事に関する覚書である『諸事書抜』と、同書の紙背文書についても収めた。
●慶長十四年・十五年においても、記事の中心は秀吉を祀る豊国社関係の記事である。豊臣秀頼・同生母浅井氏(淀殿)、北政所(高台院)や秀吉側室松丸殿(京極氏)に対する祓の進上や音信、社参の対応の記事が多く見られる。兼見は豊国社の邸に滞在する期間が長くなるが、同社には浅野幸長・同長晟・片桐且元・同貞隆・大野治長・加藤清正・福島正則ら、いわゆる「豊臣恩顧」大名の社参が続き、加えて家康家臣である奥平家昌・大久保長安・本多忠勝らとの神事に関わる交流も見られる。江戸幕府京都所司代の板倉勝重に対する礼も怠っていない。
●前冊の頃よりたびたび記されていた身体の不調は回復せず、本冊でも足の「筋痛」による「行歩不自由」という症状で身動きもままならず、神事を勤められない日が多くなる。最終的に慶長十五年九月二日に倒れ急逝するが(『舜旧記』)、日記は八月十三日の記事をもって途切れている。秀吉十三回忌にあたる八月十八日の豊国社臨時祭を終えたことに加え、同二十日に長く親交のあった長岡幽斎が京都において死去したことも、兼見の死を早めた原因だったのかもしれない。
●本冊の時期においては、自身の病気に加え、養子として豊国社社務を勤める孫の萩原兼従も長く煩って神事を勤めることができない状況が続いたほか、嫡男兼治と孫の兼従がともに窮乏にあえぎ、兼見に借金を請うてきたり、兼従は一時出奔するなど、吉田神道を継承すべき子や孫たちの行状に悩まされつづけた。いっぽうで、もう一人の孫幸鶴丸(のちの吉田兼英)が神事を勤めるようになるなどの嬉しい話題もある。
●政治的事件としては、慶長十四年八月から九月頃にかけて起きた、宮中女房衆と公家たちの密通事件、いわゆる「猪熊事件」が注目される。日記本文にはわずかな風聞しか書かれていないが、本冊にて初めて翻刻される豊国神社所蔵本の紙背文書に、この事件に関わるとみられる前後欠の書状があり、事件の経過を知るうえで注目される。
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