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「黒船来航」に対して、幕府は本当に弱腰だったのか?
日米開国交渉に関する最重要史料でありながら、
一般にはほとんど知られていない日本側の議事録が初の現代語訳に!
明治維新以後150年の「常識」を覆す!
「もちろん、「黒船来航」についての日本側の記録は、数多く存在する。しかも、日米和親条約と下田追加条約の交渉に関する詳細な記録さえ残されている。史上初の日米交渉がどのようなものだったのか、それを日本語で書き記した史料が現存するのである。
それこそが、本書に現代語訳と原文を収録した『墨夷応接録』である。〔……〕しかし、この本の知名度は、百年以上にわたってほとんど高まることがなかった。限られた人たちだけに読まれ、そこに書かれている内容も、ごく一部が広まったに過ぎなかった。
〔……〕『墨夷応接録』の内容を知らなかった読者は、本書を読んで、大いに驚かされることだろう。江戸時代の日本の役人は、われわれの想像を遙かに上回る交渉術を持っていたのである。もちろん、彼らにも弱点は多くある。しかし、同書に登場する日本の役人が見事なのは、日米和親条約に至る議論で判明した弱点を、次の下田追加条約に至る交渉時には、ことごとく修正してきていることだろう。ペリーは、完全に相手の力量を見誤り、結果として下田追加条約のほとんどが、日本側の要求の通りになってしまった」(本書「緒言」より)。
●『墨夷応接録』(ぼくいおうせつろく)
江戸幕府とペリー艦隊との「史上初の日米交渉」について記された、日本側の唯一の議事録。
嘉永7年(1854)1月19日~6月2日までの交渉内容とその間に周辺で起きた重要な出来事を、幕府全権・林復斎らの視点で詳細に記録している。
●林復斎(はやし・ふくさい)
寛政12年(1801)~安政6年(1859)。幕末の儒官。林大学頭家11代当主。老中・阿部正弘の命をうけ、日米開国交渉において幕府全権(応接掛筆頭)を務める。
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