災害と日本人 1998ー2002
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被害者の側に立つこと、被害者との同一視は、私たちの荷を軽くしてくれ、私たちの加害者的側面を一時忘れさせ、私たちを正義の側に立たせてくれる。それは、たとえば、過去の戦争における加害者としての日本の人間であるという事実の忘却である。私たちの心の奥底には、浮上すれば病的症状となるような漠然とした被害者意識が潜在しているかもしれない。その昇華ということもありうる。
社会的にも、現在、わが国におけるほとんど唯一の国民的一致点は「被害者の尊重」である。これに反対するものはいない。ではなぜ、たとえば犯罪被害者が無視されてきたのか。司法からすれば、犯罪とは国家共同体に対してなされるものであり、被害者は極言すれば、反国家的行為の単なる舞台であり、せいぜい証言者にすぎなかった。その一面性を問題にするのでなければ、表面的な、利用されやすい庶民的正義感のはけ口に終わるおそれがある。
(「トラウマとその治療経験」2000)
被害者と同時に加害者理解を進めることも忘れてはなるまい。これは車の両輪である。「極悪非道」や「心の闇」で片づけて済むことではない。ある女性弁護士は「罪状を争わない事件では被告が納得して刑に服せる内容の判決を得るように努力する」と基本方針を語り、私はこの考え方に共鳴して共に働いたことがある。そのような判決文をかちとることはきわめて「治療的」だと私は思う。さもなくば、せっかくの服役が稔らず、出所後の再犯率が高いであろう。
(「ある家裁調査官と一精神科医」2002)
災害によるトラウマをたどり、そこから他者の心の傷への共感が生まれる可能性を説いた表題作他「トラウマとその治療経験」等31編。
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