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かつて保守派の論客としてマスコミを賑わせた西部邁氏が、今年1月、78歳で自死した。病気がちだったこともあり、自らの人生に自ら始末をつけるという、潔い最期だった。
そんな西部氏の言論活動の原点は、日米安保条約に反対する武力闘争「六〇年安保」にある。東京大学に在籍していた筆者は、学生運動の指導的立場にあった。のちに東大教授となり、社会問題に対して保守の立場から盛んに発言し、世の人気を博した。世間にはこれを転向、変節と評する向きもあったが、著者はそれについて長く反論、弁明をすることはなかった。
本書は、1986(昭和61)年に著者がはじめて当時の闘争を振り返ったもので、当時盟友として共に戦った人物たちの内面の葛藤にまで踏み込み、あの闘争とは何だったのかを問い直す。そこには崇高な思想よりも若者としての焦燥感、虚無感などが色濃く現れざるを得ない。「空虚な祭典」の中にいた「哀しき勇者たち」を、著者は時に愛をもって、時に突き放して語っていく、者が副題として「センチメンタル・ジャーニー」と名づけたのは、、当時の青年たち、そして著者自身の青春を描く物語が、逆に「知の誠実とな何か」を問うことになるからだ。
真にラディカルであることは、右とか左とかを問うことではない。行為の一貫性にこだわり内実を問わないのは知の怠慢である。
昨今盛んな改憲論議は、保守だリベラルだ、右だ左だといった単純な図式で語ってよいのか。著者が「六〇年安保」と題した本書で提起している問題は、現代においてこそ改めて真剣に考えられるべきテーマである。
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