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昭和30年代初め、実家の母屋に3人の小父がやって来た。1人の小父の家はかつて殿様をしていたという。2人の小父は祖父の腹違いの弟という。父の直ぐ下の妹の家とはよく揉めていた。小学生の私は「この家はどうなっているんだろう」と疑問に思った。それにしても大阪城の東にある実家から夕日を背に受ける城は夏の陣で落ちる様を見るようだった。
祖父は戦前に塗料会社を作り、陸軍に買い取って貰って財をなし、あちらこちらに土地を買っていた。養子先だった三重県の山奥にある広い屋敷を買い取り、戦争中は一族が大阪から疎開をした。戦後、大阪に戻り、元にあった塗料工場で再開していた。しかし、従業員がシンナーの充満している所で誤って火種を落とし、すべてが焼け落ちるほどの大火になった。町中の工場は危険ということで当時は田畑ばかりの大阪市内に移って来た。
父は4人の弟と4人の妹、合計9人の長男であった。母は夜遅く迄、工場で働いていた。同居している祖母の元には直ぐ下の妹婿がやってきてはお金を無心して帰った。母は汗まみれで働いているのに十分なお金を貰えず母は無念な思いを娘の私に当たって来た。そして、「金持ちと結婚させて恨みを晴らす」と言い続けてきた。私には腹いせをし、兄を溺愛していた。
昭和37年、祖父は「親に棄てられた」と泣きながら死んでいった。2年後の昭和39年、祖母は東京オリンピックの開会式の4日前に亡くなった。
祖父は遺言書を残していたそうだが、叔母の一人が破り捨てたそうだ。それから何十年も骨肉の争いになった。
私は高校を出ると就職をした。そして、結婚をしたが、母は「子どもなんて金が掛かる。堕ろせ」と叫んできた。相変わらず、「自分は殺されたくない。あんたが怨め、憎め、復讐しろ」と毎日の様に電話を掛けてきた。次第に体調が悪くなり、珍しい病気で胴体を半分切る大手術を受けた。母は寝たきりの私に「息子夫婦が大きい家が欲しいと言っているので、会計をしている叔母から取ってこい」と命令した。
私は母から離れた。手術から十年後、医者から命が終わると言われていたが夫の強い勧めで西暦2千年にイスラエルを旅した。旅から帰って間もなく父が倒れたと連絡を受けた。
実家に行くとまるで牢獄の様な状態で、しかも叔母から数千万円返却の訴えをされていた。一体何が起こっていたのか?
親から過保護にされていたエリートの兄は46歳で脳内出血を起こし1級障害者になっていた。私を虐待していた両親だけれど、面倒を看るのは私だけと覚悟を決め、看病・介護と裁判に対処していった。
1年後、父は様々な問題を残して亡くなった。役所に返却する書類を捜すためにロッカーを開けた。驚くべき事実を発見した……
以前から実家の歴史も調べていたが、400年以上前の争いと幕末、明治の動乱期に家の歴史は変わっていった。祖父の悲しみも、父の不遇もすべて原因あっての事だった
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