取り寄せ不可
異国を長い間旅していると、日本語の活字に飢えてくる。とくにイスラーム圏にいると、日本の本が手に入る可能性はまずない。
私がエジプトとシリアに住み、その後シリアから陸路で国境を越えてトルコからギリシャ、イタリア、フランス、スペイン、ポルトガルまで地中海世界を放浪したのは世紀の変わり目で、スマホもまだなく、ようやく町のインターネット・カフェで日本とメールのやり取りができるようになった頃だった。
そんな環境だから、住んでいる者や、すれ違う旅人どうしで手持ちの本を交換しあうのは宝の交換のような喜びだった。そうして出会った一冊の本の中に、「昼も夜も彷徨え」というマイモニデスの言葉がのっていた。その言葉は、故郷から遠く離れ、異邦人として、旅人として生きていた私の心に、静かに寄り添うように響いた。 帰国してからマイモニデスについて調べてみたが、これはとんでもないものに心惹かれてしまったな、と思った。宮廷侍医だけではなく、中世最大のユダヤ教の思想家であり、哲学者であり、一流のタルムード学者。とても門外漢の私の手などにおえる相手ではない。
一方で私は、マイモニデスが生きたイスラーム世界の空気を肌で感じていた。彼が渡り歩いた土地の多くを、私もまた旅していた。 コルドバの路地裏で石畳の音を聞いた。地中海を渡る船でザコ寝して夜明けを迎えた。砂漠に寝っ転がって、満点の星空の下で眠った(本当に、まぶしくって、眠れやしない!)。砂と人いきれでごった返すカイロは、旧市街に行くと、十二世紀の地図を頭に入れても動けるぐらい当時の面影を残していた。 もしも土地に記憶というものがあるならば、その記憶をたどってひとつの世界が描けるかもしれない……。いつしか私の中で、物語が勝手に言葉をつむぎはじめた。――「あとがき」より
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