断章としての身体
1971年に出された『サド、フーリエ、ロヨラ』の「序文」は、『記号の国』でかいま見せたロマネスクの手法を明言し実践するものであった。「わたし」を用いて語り、「伝記素」や「テクストの快楽」といった言葉を登場させ、「作者の回帰」を主張したのである。そして1973年の『テクストの快楽』では、「快楽/悦楽」や「身体」の概念、独自の断章形式をみごとに開花させたのだった。1960年代に、新批評の論客、記号論的分析の第一人者であったロラン・バルトが、ロマネスクへの道に進もうとしていた、知的変貌の時期に彼が書いたこと話したことが、この巻に初訳・新訳の23篇として収められている。
自分の半生や著作について真摯に語った長大なインタビュー「返答」、『テクストの快楽』に寄り添っているように見える「エクリチュールについての変奏」は、手の動きや身ぶりとしてのエクリチュールを学術的に論じた長編であり、バルト独特の断章形式をじゅうぶんに試みる場にもなっている。また「テクスト(の理論)」は、テクストとは何か、テクストと作品の区別、テクスト理論の意義、などと同時に、「意味形成性」「フェノ‐テクストとジェノ‐テクスト」「間テクスト性」といった難解にみえる概念がわかりやすく説明されている。
その他、中国旅行の失望の経験に肯定的な価値をあたえるべく「正確」に語るための新しいエクリチュールを試みた「では、中国は?」や、バルトにとってのジャック・デリダの存在の意味が簡潔かつ誠実に語られた「ジャン・リスタへの手紙」、年来の友人モーリス・ナドーと語り合う「文学はどこへ/あるいはどこかへ行くのか?」など、いくつもの読みどころに満ちた一巻である。
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