兼見卿記 第6

自文禄五年正月至慶長十三年十二月

史料纂集 古記録編

兼見卿記

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出版社
八木書店古書出版部
価格
14,300円(本体13,000円+税)
発行年月
2017年5月
判型
A5
ISBN
9784840651905

●後半慶長七年記以降の記事の中心となるのは、秀吉を祀る豊国社関係の記事である。弟梵舜が神宮寺社僧となり、孫萩原兼従(慶鶴丸)が兼見の養子として社務職に補された。吉田と豊国社を往復する兼見の行動が記録され、秀頼・同生母浅井氏(淀殿)・北政所(高台院)・八条宮智仁親王・木下浄英(家定)ら秀吉の係累、片桐且元や小出秀政・大野治長ら家臣、福島正則・黒田長政らいわゆる「豊臣恩顧」大名たちの豊国社参詣や、彼らとの音物のやりとりの様子が頻繁に記される。豊国社については、梵舜の日記『舜旧記』全8冊(史料纂集古記録編:完結)と併読することにより、秀吉没後の豊臣家周辺の動きが明らかになる。
●本冊の期間における大きな出来事としては、秀吉の(指月)伏見城を倒壊させた文禄五年閏七月発生の(慶長)伏見地震がある。この地震の発生や被害状況を伝える史料は多いが、本冊に収められた記事もまた、とくに京都の被害や、被災した禁裏の様子、朝廷としての対応を知るうえで貴重である。これをきっかけに年号が文禄から慶長へと改元されるが、兼見は改元仗儀の聴聞を許され、その様子を記録している。
●兼見に対する後陽成天皇とその生母勧修寺晴子(新上東門院)の信頼は相変わらず厚く、伏見地震のさいの祈?を始め、晴子に依頼された神事を毎月修するほか、事あるごとに禁裏の祈?に携わり、三社託宣の宸筆名号を賜るなど、吉田神道の継承者として朝廷の神事に重きをなした。このため慶長二年二月に兼見は従二位に加級され、兼治は左兵衛佐に補任されている。
●文禄二年に家督を息兼治に譲り、大坂・伏見とのやりとりはもっぱら兼治があたっていたためか、政治向きの情報はこれまでにくらべて必ずしも多くないが、文禄五年五月の拾参内・昇殿(元服)、および同日の家康任内大臣、また慶長八年八月の徳川秀忠女千姫と秀頼の祝言など、豊臣氏・徳川氏の動向がうかがえる。この間に生じた政治的勢力図を大きく塗り替えることになる慶長三年八月の秀吉薨去、同五年九月の関ヶ原の戦いについては、前後の年次に欠落があって記事がない。これは伝存の問題ではなく、兼見自身が大病を患ったため、この期間執筆できなかったのが理由のようであり、慶長七年記以降、病気がちな様子が書きとめられている。
●私生活では、父兼右二十五年忌を営み、伯父牧庵等貴の事故死(賀茂競馬の見物に赴き増水した鴨川を渡ろうとして溺死)に慨嘆したり、孫幸鶴丸(のち兼英)の色直しに立会い、孫女辰の近江長束助信(正家甥)への輿入れに際し、姉満の時ほどの準備ができないことを残念がり、その満が阿野実顕との間に儲けた嫡男(兼見の曾孫)薫(公福)が元服するなど、豊富な記事がある。そのなかで兼治との不仲をうかがわせる記事も散見され、祈念料の分配や兼治の借銭をめぐる経済的な問題がその原因となっていたことが推し量られる。
●交遊関係では、長岡幽斎が吉田山内に随神庵を営んで滞在することが多かったため、幽斎を媒介とした文化的交流が垣間見られ、本冊では本因坊算砂ら碁打との交流が目立つものとして挙げられる。

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