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「天下統一」は、決してスムーズに進んだわけではありませんでした。秀吉も家康も武力はもちろんのこと、様々な手段を用いて自らが「天下人」であることをアピールしなければなりませんでした。その中でも二人がこだわったのが超大国明による承認でした。二人とも「日本国王」への冊封を望んだのです。 本書では、従来、国内の事情のみで語られがちであった「天下統一」という事態を、広くアジアに視点を広げて考えて行きます。
「天下統一」とは、どのような状態になった時にそう言うことができるのでしょうか? 通常の理解では、織田信長がそれを理念として掲げ、後継者の秀吉が島津攻め、後北条氏を滅亡させるなどしてこれを成し遂げ、最後に家康がその利を取ったということになるでしょう。では、「天下統一」がなったのは何年なのでしょうか?
そう問うと、これは意外とやっかいな問題だぞ、というのが著者の考えです。というのも、信長は言うに及ばず、秀吉の「統一」も急ごしらえで支配基盤は強固なものではなかったからです。
秀吉は後北条氏は滅ぼしましたが、家康は言うに及ばず、島津にしても伊達にしても、武力で屈服させたわけではありません。「形として」自分に従ったことにすれば、いちおうそれでよしとしたのです。この対応パターンは、じつは家康に対するものとほとんど変わりはないのです。
秀吉が求めたのは、むしろ「外部」による、すなわち明による「日本国王」としての承認でした。足利義満と同じパターンを望んだのです。自身の権威を当時の地域の超大国明に認めさせることこそが、諸大名に対する、自身の権威の何よりの証明になると考えたのです。秀吉の後を継いだ家康も、やはり明による「冊封」を模索します。そのために、秀吉は朝鮮を日本の従属国であるかのように扱い、あげくには朝鮮出兵にまで至ります。一方、家康は薩摩に命じて琉球を征服し、「日本国王」に服する国家を実際に作り上げてしまいます。
幕府なり、太閤様なりが、実質的な権力体として日本国中にまんべんなく承認されることは、じつは現在のわれわれが考えるほどに単純なことではありませんでした。彼らは武力はもちろんのこと、様々な手段を用いて自らが「天下人」であることをアピールしなければなりませんでした。そして明という外国による承認こそ、彼らは、当時の日本人にとっても説得力があるものと考えたのです。
本書では、従来、国内の事情のみで語られがちであった「天下統一」という事態を、広くアジアに視点を広げて考えて行きます。
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